読書

『ゲド戦記』1巻の影を考察。人が成熟するために必要なもの

注意:映画ではなく原作の考察です。

『ゲド戦記』1巻の「影との戦い」の中心的な存在になっている「影」について考察してみました。

物語の中では影の正体が何なのか語られず、ゲドが影について調べても手掛かりはほぼゼロ。

ロークの長たちに聞いても、”邪悪なもの”とか、”偉大な力でないと呼び出せないもの”というような回答しかありません。

そこで、いろんな文献や、著者であるル=グウィンのエッセイを読んで、影が一体なんなのか、どんな役割を持っているのかを考えてみました。

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1巻の概要と感想はこちらに書きました。

『ゲド戦記 影との戦い』感想。影にどう向き合うべきか教えてくれる初めて『ゲド戦記』を知ったのは、2006年にジブリ映画化したときです。 子どもの頃の私には映画の内容はほとんど分からなかったのです...

ゲド戦記における影の正体

ゲドは最終的に影とひとつになり「己を全きものとした」(307)ことで終わりを迎えます。

物語の中で影の正体について具体的に書かれてはいませんが、ゲドが影と1つになったとき、こう書かれています。

ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものにしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。(307)

ここから、影はゲドの一部であったことが決定的になります。

でも、これだけでは影がゲドの何なのかよくわからないので、具体的に考えてみたいと思います。

1巻の主題は「成熟の年代」であり、影は「自己認識へ、大人へ、光への旅の案内人」であると、ゲド戦記の著者であるル=グウィンは自身のエッセイ集『夜の言葉』で言っています。

影と1つになることはゲドが成熟するための一要素となっていることは間違いなく、ル=グウィンの考える成熟は、先の引用にある通りとも言えると思います。

また、『夜の言葉』では影を次のように定義しています。

影とはわたしたちが自我として意識するもののなかに入れたくないもの、入れられないものすべて、わたしたちの内にありながら、抑圧され、否定され、とりあげられることのなかった性質および傾向のすべてなのです。

アーシュラ・K・ル=グウィン『夜の言葉』103ページ

自我というと難しく聞こえるかもしれませんが、大雑把にいうと「自分が意識している心の部分」のことです。

つまりこれは、「自分が自分の心の一部として意識したくなくて締め出している心の部分」=「影」と考えられます。

なんとなく気づいたかもしれませんが、これは心理学に関係するお話です。

ル=グウィンはユング心理学に関心があり、自身の評論でユングについてしばしば言及しているほどです。

ユングは影を次のように言っています。

すべての人には影があるが、個人の意識のなかでそれが組み入れられなければ、それだけ影が暗く濃厚になる。もし劣等な部分が意識化されるなら、人は常にそれを修正する機会をもつ。それは絶えず変化し続ける。しかし、劣等な部分が抑圧され、意識から孤立されるなら、それは修正されることもなく、気づかぬうちに突然の爆発を起こしやすい。

以下の書籍の日本語訳による。
織田まゆみ『ゲド戦記研究』212ページ

この言葉から、ユングとル=グウィンの考える影は同じものであると考えられます。

つまり『ゲド戦記』における影は、ゲド自身の心が具現化したものであり、ゲドによって抑圧され、否定されてきた人格や性質の集まりなのです(その具体例は次の項目で)

影は人間なら誰にでもあるものですが、影を具現化させることは誰にでもできるわけではありません。

呼び出しの長が「ただ、ひとつだけはっきりしておることは、偉大な力でなくてはそのようなものは呼び出せぬ、と言うことだ」(130)と言っているように、影の具現化はゲドに優れた魔法の才能があったからできたことです。

メタ的なことを言うと、アースシーにいる誰もが影を具現化できたら世界が大変なことになるから、偉大な力がないと呼び出せないようにしたのかもしれませんね。

そういうわけで、『ゲド戦記』は人間の心の中で起こっていることを表に出して(影の具現化)、アースシーの世界で表現していることが分かります。

影の正体まとめ
  • 影はゲド自身の心の一部であり、ゲドが抑圧し、否定してきたもの(ユング心理学に関係している)
  • 具現化できたのはゲドに優れた魔法の才能があったため。

「ゲドが抑圧し、否定してきたもの」とは、「ゲドが自分の気持ちとして認めたくなかったもの」ということですが、その具体例をゲドが影を呼び出した3つのエピソード(ゲドと影が追いかけっこを始める前のエピソード)から見ていこうと思います。

 

1度目の影

初めて影が現れたのは、ゲドがオジオンの元で修行をしている中で出会った少女がきっかけでした。

少女に、死んだ魂を呼び出すことはできるかと聞かれて、ゲドは自分の力を見せつけようとしてオジオンの家にある知恵の書を開き、影を呼び出してしまいます。

ゲドはこのとき何を抑圧していたのでしょうか。

それは、「魔法を使って褒められたいという思い」ではないかと思います。

オジオンは魔法を使うために必要な神聖文字を教えてくれても、魔法を使うこと自体は教えてくれませんでした。

オジオンが魔法を教えようとしない理由はちゃんとあったのですが、それをゲドは不服に思っていたことが物語からうかがえます。

ゲドはオジオンの弟子になる前から魔法に対して貪欲で、村にいた頃は叔母だけでなく、風の司や手品師のところへ自分から行って術を習ったりしていたほどです。

それなのに、魔法をなるべく使おうとしないオジオンの弟子になってしまったんだから辛かったろうなと思います。

しかもおそらく、ゲドは魔法に関しては褒められて育ったんじゃないかと思います。お父さんは褒めていないでしょうが、叔母や魔法を使うその他の人には露骨でなくても褒められていたと思います。

才能があったし、敵が攻めてきたときに追い払ったりもしましたから。

兄たちのように仕事が真面目にできたわけでもないので、むしろゲドには魔法しかなかったとも言えるかもしれません。

好きなことをやらせてもらえないけど、でもゲドはオジオンの教えが正しいこともわかっていたので、彼の教える通りに神聖文字を勉強していました。文句も言わずに。

そこがまずかったのかもしれませんね。

ゲドは魔法に貪欲であるあまり、耐えることも人一倍できるのだと思います。ロークでも大変な勉強を誰よりも頑張っていますし。

そんな風に大好きな魔法を我慢している時に気になってた少女から「まだ、ちょっと小さいから、無理かもしれないわね」(46)なんて言われたら、いいところを見せたいって思っちゃいますよね。

特にゲドは自分に才能があることを自覚していたでしょうから、できると思っていたのかもしれません。

そんなこんなで、今まで意識の外に追い出していた「魔法を使って褒められたい」という欲に突き動かされ、ゲドは知恵の書を開いてしまいました。

ここからが面白いのですが、たぶん、この行動は影に操られているんじゃないかと思います。

まず、この頃のゲドは神聖文字を全部は理解できていないので、知恵の書を読むのも一苦労でした。

最初は変身の呪文を探していましたが、そのうち死霊を呼び出す呪文に目がいきます。

それでも、そのつもりになれば、多少は理解できるところもところどころあって、それに、少女の言ったことや、あざけりの表情がゲドの心に焼きついて離れなかったせいだろう、気がつくと彼の目は、死霊を呼び出す呪文のことを書いたページに吸い寄せられるようにとまっていた。(47)

「気がつくと」とあるように、これはゲドが意識してやったことではありませんでした。

なんかよくわからないけど、死霊を呼び出す呪文に目がいったという感じでしょう。

変身の呪文よりも高度な死霊を呼び出す呪文を使うことができれば、少女を見返し、賞賛を得ることができると心のどこかで思ったのかもしれません。

そしてゲドは、死霊を呼び出す呪文を読んでいる最中、恐怖に取り憑かれますが、「彼の目はそのページにくぎづけになって、呪文を読み終えるまでは、目をあげることができなかった」とあります。

「神聖文字はまだ速くは読めなかったし、読んだところで、ほとんど理解できなかった」(46)とあるのに、読もうとするんですね。

普通なら、読めない文字が多いものを最後まで読もうとはしないんじゃないかと思います。

理解できない文章なんて途中で放棄したくなりますし。

きっと、ゲドには最後まで読もうとする力が働いていたのでしょう。

「魔法を使って褒められたい」というゲドの欲望とも言える影の力です。

こうしたい、こうなりたい、という気持ちが強くなると、時としてすごいやる気が湧いてきたり、突き動かされるようにして行動できる時がありますが、そんな感じだったのかもしれません。

死霊を呼び出す呪文は難易度が高いことをゲドは知っていた(もしくはそれが禁忌の呪文だと知っていた?)から、最初は変身の呪文を探していたのかもしれません。

でも、抑圧していた思いや欲によって影の力が強くなり、それが自制心を上回ることで、ゲドが影に操られる結果になったのだと思います。

1度目の影まとめ

オジオンの教え方が正しいとわかっていたから、「魔法を使って褒められたい」という思いを抑圧していたが、少女の言葉によって抑えきれずに影として現れた。

 

2度目の影

2度目に影が現れたのは、ロークの学院でヒスイと対決したときです。

心理学者の河合隼雄さんはヒスイはゲドの影としてぴったりの人物であると言い、また次のように言っています。

ヒスイはゲドとは生まれが異なり、ハブナー島のイオルグの領主の息子で、ゲドが粗野なのに対して礼儀正しく——と言っても、それはゲドから見ると馬鹿丁寧すぎるが——目立ちたがりで競争心が強く、ゲドはどうしてもヒスイに対する敵対心を捨てることができない。ゲドに言わせると、ヒスイほど傲慢な人間はいない、ということになろう。しかし、ゲドこそが、目立ちたがりで競争心が強く、傲慢ではなかろうか。

河合隼雄『ファンタジーを読む』257-258ページ

つまり、ゲドはヒスイに自分の性格を投影しているということです。

ゲドはヒスイが持つ目立ちたがりで競争心が強く、傲慢である性格を嫌っています。

それをゲド自身も持っているのに、自分にそういう面があることを否定しているのです。

ヒスイにも良い面があるのでしょうが、ゲドが認めたくない人格を彼が持っているからこそ、ゲドにはヒスイの悪い面ばかりが映って見えるのかもしれません。

本文に「なぜヒスイが自分にこんな態度をとるのか、立ち止まって考えてみようとはしなかった」(85)とあるように、ゲドがヒスイにぞんざいな物言いをするからヒスイもそうしていたのかもしれません。

ゲドは自分は悪くないと思い込んでいて、自分の持つ性格を認めず、ヒスイに勝ちたいという感情ばかりが先立って、自分も他人も傷つけてしまいます。(これがユングの言う「突然の爆発」なのかな)

自分の人格を否定しているので、その反動が強く表れたのかもしれません。

どんなにゲドが認めようとしなくても、それはゲドの一部として確かに存在しているということを影が主張しているように思えます。

あと1つ影に関係していそうなことは、ゲドがオジオンの家で死霊を呼び出す呪文を使ったことを忘れていることです。

ゲドは霊を呼び出す授業の際、知恵の書にある文章をどこかで見たことがあるような気がするがどこで見たか思い出せなかったり、呼び出しの呪文を口にするたび不安になって、「扉を閉めきったどこか暗い部屋」(101)が思い浮かんだりすることがあり、2年前に自分が死霊を呼び出す呪文を唱えたことを忘れています。

いつから忘れていたのか分かりませんが、かなり恐ろしい思いをしておきながらそれを忘れたのは、ゲドが影から目を背けたからなんじゃないかなと思います。

ゲドは1度目の影の呼び出しをそれほど反省していません。

「闇だって、こっちのともすあかりで押し返せるわ」(84)とも思っているので、ゲドにとって影は光によって追い払うことのできる存在であり、力さえあれば怖いものではないようです。

ということは、ゲドがあの出来事を忘れたのは影が怖いからではないということになります。

他に理由があるとすれば、影の呼び出しを自分の間違いとして認められなかった、というのが挙げられるかと思います。

そもそも、ゲドにとってこの影は正体不明の何かであり、呼び出してはいけなかったものという認識しかありません。

最初に現れた時の影は人を傷つけるとかしたわけでもないので、これを過ちと認めるのはプライドが許さなかった可能性はあります。

ゲドはこれまで魔法の才があると言われて育ち、魔法で失敗したこともなかったかもしれません。

ロークでも修行とさえ言えるような勉強にも愚痴をこぼさず、誰よりもストイックに勉学に専念し、「ローク始まって以来の秀才」(98)とまで言われるようになります。

ゲドは自分の犯したことを間違いであると受け入れられず、影を呼び出した出来事を魔法の力を鍛えるという行為によって上塗りすることで無意識のうちに抑圧し、忘れることで失敗から責任逃れし、自分自身を守っていたと考えられます。

ゲドが他の生徒と比べて異様に力に固執するのは、ヒスイへの競争心だけでなく、自分の失敗を忘れるためだったのかもしれません。

2度目の影まとめ

自分の性格や失敗を認めようとしなかったが、それでも確かにそれはゲドの一部だと主張するように影が現れた。

 

3度目の影

3度目の影との出会いは、ペチバリの息子を助けに黄泉の国へ行った時です。

この時の影は前の2回とは違い、ゲドを操ることも、襲ってくることもありませんでした。

影はゲドが死者の国にいるのに対して、生者の国に立っています。

これが意味していることは、ゲドが心の底では生きたいと願っている、ということです。

ゲドはロークで影を呼び出した時、自分を助けるためにネマールが死んでしまい、そのことにかなり負い目を感じています。

自分が「死んだほうがよかった。」(121)とさえ言っているほどです。

危険な竜退治に来たのも、黄泉の国へ行ったのも、自分の命をぞんざいに扱っているせいだったのかもしれません。

生きることを否定していた、とも言えます。

ですが、影はゲドが本当は生きたいと思っていることを知っていて、生者の国に立ってゲドを待っていたんだと思います。

ゲドがここで生きる決心をしたことからもそのことが窺えます。

ル=グウィンが言った、影は自己認識や、光への旅の案内人であることがよくわかるシーンだなと思いました。

3度目の影

生きたいという思いを否定していたが、影はゲドが本当は生きたいと思っていることを知っていた。

 

影の役割

影が現れた3つのエピソードから、影はゲドの欲望や思いを忠実に表していることがわかります。

「魔法を使って褒められたい」

「女の子にいいところを見せたい」

「自分は傲慢な人間じゃない」

「もっと生きていたい」

いろんな欲望(それもゲドに否定された欲望)を影は持っています。

ゲドはそれを認めようとしませんが、それは確かにゲドが持っているものなので、見ないフリをしていても問題が起きてきます。

影を呼び出したのはどれも見ないフリをしていたからでしょう。

ゲドの起こす問題は、自分の一部を認めないことでいつか我慢できなくなることで衝動的になったりして、やってはいけないことをやることで自分の欲求を満たそうとしてしまうために起こることです。

禁忌の魔法を使ったり、死者を生き返らせようと黄泉の国へ行ったり。

自分の本当の姿や本当の思いから目を背けているから、欲求を満たす方法や手段を間違えてしまう、ということです。

成熟がテーマなだけあり、思春期の子どもが陥りやすい問題だなと思います。

それを解消するために影(認めたくない部分)を受け入れる、認めることが必要、というのがこの物語で語られていることです。

では、なぜ受け入れることが必要なのでしょうか。

たぶん、受け入れることで本当の自分を知ることができるので、自分の行動に責任を持てるようになる・欲求をコントロールできるようになるということだと思います。

ル=グウィンの考えによれば、影は光への案内人でもあります。

影に会うたびに問題が起きたり、認めたくない否定したい部分と考えたりすると、影が悪の存在のようにも思えますが、ル=グウィンは決してそうは考えていません(『夜の言葉』を読むとそれがわかる)

いいところを見せたい一心で影がゲドを操ったように、また、死んでもいいと思っているゲドの前に生者の国に立つ影が現れたように、影は負のエネルギーでもあり、正のエネルギーでもあるのです。

影は正しい方向へも間違った方向へも引っ張っていくので、他者との関わりや社会生活の中でそれを自分で制御し、そっちに行ってもいいのかどうかを判断していくことが大切、ということだと思います。

それができるようになるために、影を受け入れ、本当の自分を知ることが必要だったんですね。

まとめ:影は人が成熟するためになくてはならないもの

影は自分の認めたくない欲求や思いであり、それを自分のものであると認めないままでいると、衝動的に行動したり、やってはいけない行動を起こしてしまう。認めることができれば、影をコントロールすることができるようになる、ということでした。

人が成熟するための過程をファンタジーでここまで再現したのは本当にすごい…。

こうやって深く考えるまでは、「自分の認めたくない部分なのであれば、それはいらないものなのでは?」と思っていましたが、無意識に思っている大切な欲求(ゲドであれば生きたいという思い)とかもあるので、影とは切っても切り離せないものなんだなと思いました。

影ってユング心理学のイドみたいなものかもってちょっと思いました。

どうすればいいのか途方にくれた時に道案内をしてくれるのは影なのかもしれませんね。

『夜の言葉』ではル=グウィンが影について言及している部分があるので、ル=グウィンの考えをもっとよく知りたい方におすすめです。

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そのほか参考にしたル=グウィンのエッセイ集はこちら。

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そのほか参考に読んだ主な本はこちら。

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『ゲド戦記研究』は竜のこともたくさん言及していて面白いです。